今日は母の一周忌がありました。
私の母が亡くなったのが去年の11月1日。
本来なら同月同日(祥月命日(しょうつきめいにち))に一周忌を行うのがいいのでしょうが
平日になってしまうので、命日より前の土日で、お坊さんの都合がよかった今日、行いました。
私の実家の法事はお墓の前で行うので(お坊さんがお墓の前でお経を読む)
お天気が心配だったのですが、昨日までのぐずついた天気が嘘のような秋晴れ。
翌日の日曜日も雨だったので(ブログ記事は月曜日に書いてます)
この土曜日だけが晴れたということになり、
参列する親族のために、母が天気をよくしてくれたのかなって思わずにはいられません。
(ちなみに四十九日も晴れていました)
早いもので、母が亡くなり1年弱。
半年くらいは母の夢を見たり、母に似た面影の人を街で見かけては思わず涙したりと
母を亡くした喪失感の中で生きていましたが、
時間が流れ、今は自然に母の死を心身ともに受け入れることができたんだと思ってます。
父はどうなんでしょうか。
そんな話をすることもなく、一周忌を終えマンションに帰ってきてしまいました。
まだ1年しか経っていないといえば確かにそうなんですが、
一周忌は気持ちを切り替えるいい機会なんじゃないかなって思います。
母のことを忘れることはないけれど、もうそろそろ母の死を乗り越えてくれれば嬉しいのですが。
話は変わりますが、
私はお墓の前に立っても母を感じることができません。
実家にある仏壇の前に座っても、やはり母を感じることができません。
本来、魂が宿っているといわれているお墓や仏壇の前では感じることができないのは不思議だけど
普段の生活のふとしたときに母を感じ、思い出すことがあるので、
きっと母は、お墓やお仏壇など特定の場所にいるのでなく
『千の風になって』の歌ではありませんが、いろんな場所を風になって漂いながら
夫である父や、子供である私たち兄弟の周りを見守っているんじゃないのかなって思います。
お墓やお仏壇に、あまり頻繁に行くことができない私は、
風のように私のそばに母が漂っていてくれるなら、どこにいても母を感じることができて嬉しい。
それでも、祥月命日にはお墓に行こうと思いますので、母さんはその日はお墓にいてね。
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